ふざけた名前してんな〜。
一体何者やねん!!
というあなたに向けて、この記事ではゴーゴーケンゴの簡単な1分プロフィールと【画像33枚で振り返る】プロブロガーとして月7桁を稼ぐまでまでの軌跡の二部構成で書いて行きたいと思います。
- 「ゴーゴーケンゴ」って名前はどっかで聞いたコトあるけど、一体何者??
- ブログ開始9ヶ月で収益7桁超えたってマジ??どんなヤツがブロガーで結果出してんの??
- どうせ、ネットビジネス系の胡散臭いヤツやろ??
という疑問にお答えすべく、早速1分プロフィールの方から書いていきます。
目次(クリックすると読みたい部分まで飛べます)
- 1 ゴーゴーケンゴの1分プロフィール
- 2 画像33枚で振り返るゴーゴーケンゴの半生
- 2.1 ゴーゴーケンゴが高校球児の頃
- 2.2 カナダでエマワトソン似の美女に恋をする。
- 2.3 高校を卒業して…
- 2.4 大学入学前、マレーシアにて海外で働く大人と出会う。
- 2.5 大学入学後、イベントサークルを立ち上げる。
- 2.6 憧れのNYで英語が出来ない自分に直面する。
- 2.7 自分の無力さに気付いた大学2回生の終わり。
- 2.8 大学3回生の夏、マニラ留学に行った。
- 2.9 シリコンバレーで出会ったカッコイイ大人たち
- 2.10 大学を1年休学して、夢を叶えました
- 2.11 大学4回生でIT企業の経営幹部として参画する
- 2.12 大学を卒業して「ゴーゴーケンゴ」と名乗り始めた。
- 2.13 2018年1月から東南アジア1周に出る。
- 2.14 東南アジア1周旅が終わり…
- 2.15 そして舞台はカンボジアに…
ゴーゴーケンゴの1分プロフィール

左のメガネがゴーゴーケンゴです。
1993年生まれ。大阪府出身。
立命館大学経営学部卒業。
大学4年生休学中に大阪にてBARを全額自己資金で立ち上げ、初年度全月黒字化を達成。
2年間の経営の後、別事業者へ売却。
大学4年生時にITスタートアップに経営幹部としてジョイン。
webメディア事業で女子中高生向けwebマガジンをリリース。
立ち上げ初月から収益化に成功(最高収益300万/月)
海外展開に従事し韓国好き女子向けの情報サイトのタイverをリリース(fbページいいね数7万超)
BAR=自分がコンテンツ
webメディア=コンテンツをいかに届けるか?
この2つの経験から、
「自分というコンテンツをwebを通して世界に発信したい。」
というコンセプトのもと、現在『ゴーゴーケンゴ』を運営中。
ブログ開始6ヶ月で収益50万達成。
開始9ヶ月で収益7桁達成。
ブログ1年目の単月最高pvは43万/最高収益は266万。
学生時代にBAR経営したり、IT企業でwebメディアの運営をやっとったんか。
まぁ、意識高い系イケイケ大学生って感じやな〜。
で、今25歳で一度も就職せずにブロガーとして生計たてとるんか。
ブログ開始1年でめっちゃ伸びてるけど、なんか胡散臭いヤツか??
今まで、ちゃんとプロフィール記事書いてなかったので、この機会にちゃんと書こうと思います。
自分の半生をザックリ振り返ると、、、
- 小中高:野球一筋
- 大学生:イベサー代表/BAR経営/メディア運営
- 新卒:プロブロガー
という感じでして『好きなコト以外やらない』というスタンスで戦略的に人生をエンジョイしています。(「ゴーゴーケンゴ」という名前も戦略があってつけたんですが、理由は直接会った時に聞いてください。笑)
ここからは、ひたすら画像を貼っていきながら、僕の高校卒業〜プロブロガーとして結果を出すまでの軌跡を振り返ってるので「もう、ええわ!!」という方は、そっとブラウザを閉じてください。。。
画像33枚で振り返るゴーゴーケンゴの半生
興味を持っていただき、ありがとうございます。
嬉しい反面、ここからは本当に画像ばっかりなので、ザザーっとスクロールして頂ければ幸いです。
画像で振り返ろうと思った経緯としましては、100人以上のプロフィール記事を見てきた中で、当時の画像ナシで他人の人生なんて想像できなかったからなんですね。
そこで、僕が印象に残ってるプロフィール記事を思い返してみたら共通点がありました。
それが、過去の画像が多いという点です。
文章なんて、ほとんど読んでないんですよね。
長いし、記憶に残りにくい。
しかし、画像だと一気に親近感がわくし、想像しやすいんですよね。
というわけで、高校球児〜プロブロガーとして結果が出るまでの軌跡を画像33枚で振り返っていきます。(画像は全て過去のFacebook投稿から)
ゴーゴーケンゴが高校球児の頃

高校球児のゴーゴーケンゴ(前列・左)
これは高校3年生の時なんですが、野球してる写真じゃなくて中学野球の時のユニフォームをきてサッカーをやった時の写真ですね。
ちなみに、僕の野球の経歴を話すと、小学生の頃に日本代表で中学生で全国準優勝で野球推薦で高校に入って、高校では一度も背番号をもらうことなく引退しました。
まぁ、体育会系あるあるやな!!
ただ、挫折して引退しただけではなくて、高校野球で一番の学びになったのが「結果が出る努力が”正しい努力”」ということでした。
僕は左ピッチャーだったんですが、高校時代は肩のケガに苦しめられたんですね。
その時に「せめて、今やれる努力を最大限やろう」とダッシュやランニングを一生懸命やってました。
しかし、いくら走り込んでも肩は強くなりません。
高校野球引退が決まって、上半身のトレーニングに目覚めてから肩が強くなっていったんですよね。
その経験から「結果が出る努力が”正しい努力”」だと知り、結果を出すことにこだわるようになりました。
カナダでエマワトソン似の美女に恋をする。

ゴーゴーケンゴ、カナダで恋をする。
高校野球が終わり、3年生の夏にカナダに3週間ホームステイに行きました。
その時に出会ったのが、僕の隣に写るエマワトソン似の美女です。
どうなったんや!?
結論、このカナダホームステイを機に僕は海外が大好きになったんですね。
詳細は僕の自伝に書いてるんですが、ここでの学びは「自分らしく生きることの楽しさ」です。
「周囲の目を気にして、自分の気持ちにウソをつかなくても、もっと自分の気持ちを素直に表現しても良いんだ!!」
そんなことに気づけたのは、このカナダで恋に落ちたからです。
高校を卒業して…

高校の卒業式にて。
野球少年やった男とは思えへんぞ!!
この頃、実はすでに地元のBARでアルバイトを始めてたんですね。
「プロ野球選手になる」という夢が終わり、次に見つけた夢が「自分のBARを開く」ということだったんです。
カナダで「自分らしく生きることの楽しさ」に味をしめた僕は、とにかく楽しいことを追求してたんですよね。
なので、この時は夕方から朝までBARで働いて、そのまま学校に通ってました。
それくらいBARが楽しくて、夢中になってたんですよね。
大学入学前、マレーシアにて海外で働く大人と出会う。

マレーシアにて海外で働く大人と出会う。
高校の同級生のお父さんがマレーシアで働いてるということで、友達2人と一緒に10日間ほどマレーシアのクアラルンプールに遊びに行きました。
この時に、海外で働く大人たちをみて「おおー!!海外で働いてる大人カッケー!!」とテンションが上がり「いつかは海外で働くぞ!!」と思うキッカケになったんですね。
大学入学後、イベントサークルを立ち上げる。

イベントサークルの代表をしてた頃
こういうチャラチャラした集団!!
この画像を見る限り、めちゃくちゃチャラそうに見えるんですが、実際にみなさんが想像するようなチャラさはありませんでした。
僕にとって「楽しさ」が最優先であり「面倒なこと」は楽しさを掻き消してしまうので、面倒になりそうなことは一切やらなかったんですよね。
誠実ぶるわけではなく、シンプルに「なるべくド派手に楽しく遊びたい!!」という気持ちが強かったんですよね。

ハタチの誕生日をサークルのメンバーに祝ってもらった時
ぶっ倒れてるのが僕です。
この頃は割とガチで「同世代で一番酒が強い」と自負してたんですよね。
テキーラを常温でボトル一気してクラブに遊びにいったり、とにかく「飲めることがカッコイイ」と思って、浴びるようにお酒を飲んでました。
飲んで騒いで記憶飛ばすって…
憧れのNYで英語が出来ない自分に直面する。

憧れのNYで英語が喋れない自分。
イベントサークルをやりながら、女子大生向けのフリーペーパーの制作などに精を出してた大学1~2回生でしたが、2回生の夏休みに訪れたNYであるキッカケがありました。
現地で仲良くなった日本人とアメリカ人の友達とみんなでBARに行った時、全く会話についていけなかったんですよね。
大学入学時の僕のTOEICの点数は、なんと300点(990点満点)で、アメリカ人と二人きりになった時に全く会話が出来なかったんです。
その時に「もっと外国人とコミュニケーションが取れるようになって友達を世界中に作りたい!!」と思うようになりました。
自分の無力さに気付いた大学2回生の終わり。

ひたすら図書館に篭って本を読んだ2回生の終わり
大学2回生の冬ごろにはイベントサークルも落ち着いて、自分で事業を立ち上げようと企画してました。
その時考えてたのは「美容院と契約して女子大生のカットモデルを派遣する」という事業でした。
美容院はカットモデルを探す手間が省けて、女子大生は無料でカットカラーパーマをしてもらえるというビジネスモデルです。
実際に滋賀や京都の美容院に営業してみたんですが、反応は上々。
「今まで色んな営業マンが来たけど、君が一番イイよ!!」
そんな言葉をかけてくれた美容院のオーナーもいました。
ですが、その褒め言葉で満足してる自分が居たんですよね。
結局は周りの大学生より凄そうなことをしてる自分に酔っていて、なんの実力も結果も出していない。
結局、ひとつもカタチにならずに終わりました。
結局、机上の空論で意識高い系で終わってまうねんな。
僕自身、この時の体験がすごく大きくて、これまで上手くいってると思っていた学生生活でしたが、自分がものすごく薄っぺらい人間だと思ったんですよね。
「あかん。今の俺、めちゃくちゃダサいぞ。。。」
その強烈な自分への劣等感がガソリンとなって、もっと本を読んで勉強しようと思えたんです。

ウシジマ君を読んで影響を受けてフチなしのメガネをつけて勉強してた頃
大学3回生の夏、マニラ留学に行った。

夏休みのマニラ留学の時
大学3回生は僕にとって、大きな決断をした1年でした。
- 2年半続けたBARのアルバイトを辞めた。
- 来年1年、休学することを決めた。
- 夏休み2ヶ月間マニラへ自費留学に行くことを決めた。
- 来年からBARを全額自己資金で開業することを決めた。
- 毎月ランニング100km、腕立て伏せ5000回やることを決めた。
- 短期インターンで結果を出すことを決めた。
こんなことを決めて全部やり遂げたのが大学3回生の頃でした。
やっぱり、その前に経験した「自分に対する強烈な劣等感」がガソリンになってんのか。
そして、マニラ留学ではまたもや、恋に落ちて色々な感情を体験しました。
その辺りの詳細は自伝に詳しく書いています。

マニラ留学で僕が学んだことは大きく分けて2つありました。
1つは「結果が出ない努力は疑え」ということ。
2つ目は「本質を考える楽しさ」ということでした。
マニラ留学は2ヶ月の英語留学だったんですが、当時TOEIC300点だった僕の目標は「英語を使って友達を作れるようになりたい」というものでした。
しかし、マンツーマンレッスンが始まって1~2週間が経った頃に、僕は疑問を持つようになりました。
「あれ、このまま2ヶ月勉強しても多分喋れへんぞ…」
教科書ベースで基礎を中心にレッスンを受けてたんですが、自分が上達してる手応えが全然なかったんですよね。
そこで高校野球時代に学んだ「結果が出る努力が”正しい努力”」を思い出しました。
ワガママな発想なんですが僕は心の中でこう思うようにしたんです。
「俺は才能がある特別な人間や。正しい努力すれば絶対すぐに結果が出る。今、手応えがないってことは努力の方向性がズレてるんや。」
そう考えて、すぐに行動に移しました。
僕の担当だった3人の先生を全員入れ替えて、レッスン内容も教科書ベースではなく、議論ベースにしてもらったんですね。
終身雇用とか空気を読むとかの文化があるから「先生をガラッと替える」ってなかなか申し訳ないと思ってまうわ。
それもそうなんですが、なんのために語学留学に来たのか?を考えたら、空気を読むとか言ってる場合じゃなかったんですよね。
その後は毎回、僕が「何かについて英語で語る」というのをやってました。
しかも、その語る内容が「愛」とか「平和」とかそういう抽象的なキーワードだったんですよ。
それが実は2つ目の学び「本質を考える楽しさ」に繋がりました。
「人はなぜ生きてるのか?」そんな哲学チックなことを考えるのが好きで、日本語で考えた後に英語に翻訳するということをやってたので、考える力は身についたなと。(英語力は…)

シリコンバレーで出会ったカッコイイ大人たち
マニラ留学から帰ってきてからは、BARの開業準備で毎月20万以上貯金しないといけなかったので、友達の家に居候して1食50円くらいの白菜鍋生活をしてました。
毎週日曜日に家の前の定食屋さんで500円の唐揚げ定食を頼んで、動けなくなるまでご飯をおかわりするのが贅沢でした。
そんな中、進めてたBAR開業の直前に大学のプログラムでシリコンバレーに訪問させてもらったんですね。
Googleで活躍する日本人エンジニアの方に本社を案内してもらったり、チャットワークの山本社長の話を聞かせてもらったり、スティーブ・ジョブズと一緒に働いてた日本人女性の方とお会いしたり、シリコンバレーで学校を作ってる日本人だったり、とにかく海外で活躍する日本人の大人たちと出会い感じたことがありました。
それは「どこまで行っても人間力で決まる」ということでした。
シリコンバレーと言えば、最先端テクノロジーばかり注目されてますが、人間力というのは普遍的スキルだなと。
当時まとめてた図です。
そして「人間力で戦える土俵」としてBARを開業しました。
大学を1年休学して、夢を叶えました

えらい、雰囲気変わるな〜。
BARは大阪のJR茨木駅前のスナックビルの8階に居抜きで借りてオープンしました。
僕が茨木を選んだのは、ちょうど立命館大学の茨木キャンパスが出来るタイミングだったからなんですね。
しかし、飲食店関係者からは厳しい意見もありました。
- JR茨木はファミリー層が多いからBARは厳しい
- BARをやるなら阪急茨木の方が絶対イイ
- スナックビルの8階やと一見さんは、ほとんど来ない
それは間違いない意見だったのですが、僕がそれでもJR茨木に出したは、
- 友達や先輩後輩など僕にしか呼べないお客さんを呼べる
- 駅前だと地元の高槻からもお客さんを呼べる
- 周囲にBARが少ない方が目立ちやすい
- とにかく居抜きでコストを抑えたかった
そんな理由があって、JR茨木でBARを出したんですが、ありがたいことに全月黒字で、多くの方に愛されるお店になりました。
繁盛しとったんか!!
大学4回生でIT企業の経営幹部として参画する
この時はFacebookもTwitterも全然やってなかったので写真が全くありません。。。
大学1回生の頃から、お世話になってた先輩が独立して起業するということで創業メンバーとして参画しました。
ここで初めてメディア運営に携わるようになるんですが、この経験が今のブロガーとしての基礎にもなってます。
僕が立ち上げたのはSNS集客型メディアで女子中高生向けのキュレーションサイトでした。
立ち上げてから10日間で50本の記事を見よう見まねで一人で書いて、参考サイトの人気記事の分析をしてました。
- タイトルの共通点はなにか?(文字数/キーワード/文体)
- 文章構成の共通点はなにか?(見出しの数と起承転結の順番)
- 画像は平均何枚入ってるか?
- 文字数は平均何文字か?
こんなことを独自の感覚で調べて、毎日コンビニで女性向けの雑誌を立ち読みして、流行りのキーワードなどチェックしてたんですね。
で、初月から僕の分析結果をもとにインターン生に記事を書いてもらいながら編集して、月100本近く記事を出してました。
誰かが元々、メディア運営に強かったわけでもなく、すべて自分たちの馬力のみで泥臭く目標を達成していってたのは、当時の代表から一番学んだことかもしれません。
そんなこんなで、月間pvは100万近く伸びて、収益も300万を超えるメディアに半年足らずで成長させることが出来ました。
メディア運営をやりながらも、BARの方は店長を雇って経営してましたし、この大学4回生の1年間は自分の人生において大きな1年となりました。

タイで大学生の海外研修のサポートをした時
大学卒業前の1月末から3月末までの約2ヶ月はタイのバンコクにいました。
当時やっていたメディアのタイ語verを立ち上げて、タイ人の学生をマネジメントしてたんですが、バンコクに子会社を設立するため市場調査も兼ねて行ってたんです。

バンコクで活躍する経営者の先輩がたと
僕はバンコクの日系企業で2ヶ月間インターン生として働きながら、バンコクで子会社を作るために色んな方々を繋いでもらってました。
この大学4回生の1年は、かなり濃い1年でしてブログに書くと、かなり長くなるので割愛します。(自伝に全部書いてます)
結果として、大学を卒業と同時にBARは別事業者に売却し、IT企業も抜けて、新卒ニートになりました。
順風満帆に見えるけど、何があってん!!
詳細は自伝読まなあかんのかいな。
大学を卒業して「ゴーゴーケンゴ」と名乗り始めた。

ブロガーになる直前。学生時代にお世話になったBARで。
大学を卒業してから「今まで、やりたかったけど出来てなかったことをやろう!!」ということで、プログラミングスクールに1ヶ月通いました。
メディア運営をしていたものの、webの仕組みが全くわかってなかったので、これはマズイと。
僕はタイプ的にエンジニア向きではないなと思ってたんですが、だからこそ、今後自分がなにか仕掛けたい時に必要になるのはエンジニアタイプの人だと思ったんです。
というわけで、まずは自分がエンジニアの人たちと会話が出来るように勉強しようと思ったんですね。
その結果、2ヶ月勉強して、そのプログラミングスクールのメンターになることが出来ました。
そして、大阪から東京に出ていったんですが、このプログラミングスクールをキッカケに出会った仲間たちに本当救われました。
ここに辿り着いてなければ、僕が「ゴーゴーケンゴ」としてブロガーになることも無かったと思います。
ブロガーになったキッカケは色々あるんですが、決め手になったのは天才的なエンジニアとの出会いでした。
ブロガーになったキッカケ気になるわ。
僕は当時、わからないながらも必死に朝から晩までプログラミングを勉強してたんです。
その時に教えてもらってたエンジニアの方に「普段、休みの日とかなにしてるんですか?」と聞いたところ「あまり大声では言えないんですがハッキングとかしてます」と。
その時に悟ったんです。
「この人は”好き”でプログラミングをやってるんや。それに比べて俺は”努力”やと思ってプログラミングを勉強してる。」
「ただでさえ、現時点で能力に差があるのに”努力の量”でも勝てへんかったら、一生差が埋まらん。」
「てことは、この人が”努力”と感じるけど、俺からしたら”好き”でやれることを探してそこに振り切ったほうがええやん。」
そう感じたんですよね。
そこでザックリと分類すると”ものづくり”と”ものとどけ”に分けれるなと。
生産者と発信者、エンジニアと営業、みたいなイメージですかね。
僕の性格的にも”好き”でやれるのは発信したり届ける側で、メディア運営の経験もありましたし、小学生の頃から日記を書いてたので文章を書くのは好きだと。
かつ、自分が短期間で成果を出せる&勝てる土俵ということで「ブロガーになろう」と決めたんですよね。
要は自分が好きじゃないことを努力するより、好きなことで努力した方が結果も出やすいっちゅうわけやな。

「ゴーゴーケンゴ」になりたての頃。
そんなこんなで、毎日ブログを書きながら、プログラミングスクールのメンターをやったり、大学生の海外研修のサポートをしたり、好き勝手過ごしてました。
そして2017年10月からはプログラミングスクールのメンターも一切辞めて、ブログ一本に集中したんですね。
9月時のブログ収益は1.5万円程度だったので、なかなか思い切った決断だったなと思います。
2018年1月から東南アジア1周に出る。

オールユアーズさんから衣装提供を頂いて東南アジア1周に出る
そして、2018年の1月から東南アジア1周に出発したんですが、この時は大学時代の親友と2人でyoutubeを撮影しながら、マニラ→セブ島→ジャカルタ→クアラルンプール→パンガン島→バンコク→パタヤ→プノンペン→ベトナムバイク縦断→台湾と約3ヶ月近くかけて周ったんですね。
セブ島でバジャウ族になった日本人のヒロム君との出会いはかなり衝撃的でした。
これこそ、旅の醍醐味だなと。

幼なじみとクアラルンプールで再会。
一緒に旅をしていた親友(前・右)もそうなんですが、その奥にいる幼なじみにも色々と僕が悩んでる時に支えられたので、海外で再会できたのは嬉しかったですね。(ただの腐れ縁ですが)

パタヤでマナブさんケースケさんと。
実はマナブさんとケースケさんと出会ったのも、この東南アジア1周中の出来事でして、ユーヘーさんも含めた御三方でパタヤに遊びにきていた際に、僕と親友で会いに行ったんですよね。
朝まで飲んでたんですが、めちゃくちゃ楽しくてフィーリングが合ったんです。
それがキッカケでイサラにも遊びに行かせてもらいました。(イサラとはマナブさんケースケさんが運営するプログラミングスクール兼シェアハウス)

イサラにて旧友と再会
そしたら、学生時代に行ってたマニラ留学の時の友達(エイソン)がイサラに住んでたんですね。
話を聞くと、ショーヘーさんが僕が卒業した後にその語学学校に来ていたみたいで、仲良くなって遊びにきてたんです。
新しい出会いや懐かしの再会が多いのは旅の醍醐味ですね。
人との出会いが旅の醍醐味やもんな〜。

プノンペンにてマサさんを紹介してもらう。
そして、バンコクの次に訪れたのがプノンペンなんですが、マナブさんも同じタイミングで来ていて、その時にマサさん(左)を紹介してもらったんですよね。
結果的に、この出会いがカンボジアでシェアハウスをやるキッカケになっていくんですが、本当に数珠つなぎのように出会う人出会う人に面白い人たちを紹介してもらって繋がっていきました。


そして、ベトナムバイク縦断はショーヘーさんとエイソンも合流して4人で旅をしました。
僕はホーチミンで次の予定があったので、途中のホイアンで別れたんですが、最後はホーチミンでみんなで合流してゴールを祝いました。

ホーチミンで大学生の海外研修のサポート
ここで、東南アジア1周旅は終了したんですが、僕は大学生の海外研修のサポートでホーチミンと台湾に残ってたんですね。

台湾でも学生のサポートをしてました。
そんなこんなで、約3ヶ月の東南アジア1周が終わり日本に帰国しました。
台湾には一人で3週間ほど残ってたんですが、ちょうど仮想通貨のトレンドが終了して、50万を超えてた僕のブログ収益も15万弱まで落ち込み、一人でもがいてた時期でした。
東南アジア1周旅が終わり…

イケハヤさんに会いに行く。
日本に帰国した直後に書いた記事がハマって収益が一気に7桁を突破しました。
そのタイミングでイケハヤさんにお礼を言いに高知まで会いに行ったんですね。(実はブログ始めたタイミングでイケハヤさんからmacbookproを頂いてました)
そして、1ヶ月の日本滞在の後にバンコクのイサラに環境を移して、ブログに励みました。

イサラのケースケさんとユーキさん
1ヶ月間イサラに滞在してたんですが、イサラで出会う人たちは例外なく、みんな素敵な方で勝手に刺激を受けながら過ごしてました。
そして舞台はカンボジアに…
そして、2018年6月から一気に「カンボジア・トークンハウス編」突入していったんですね。
こうして振り返ってみると、やっぱり自分の人生想い出がたくさんあって「出会いと別れ」を繰り返しながら、ゴーゴーしてるなと。
悩みとかないやろ!!
確かに、僕は自分でも自信を持って「最高の人生です」と言い切れますが、悩みがないわけではないですし、行動に移してきた分、それだけ失敗や壁にぶつかることも多かったと思います。
ただ、常に自分に言い聞かせてたのは「負けっぱなしじゃ終わらねぇ!!」という気持ちです。
自分の人生が終わる瞬間に「あぁ、俺の人生めっちゃ濃かったな〜。最高な人生やったわ。」と感じて死にたい。それだけなんです。
だから、今は苦しくて、失敗して、負けてても、最後に笑えれば全部オッケーです。
僕は自分の人生「どうせ、上手くいく」と思っていて、どうせ、何やっても上手くいくなら、自分の好きなことだけをしていこう。
そんな風に思ってるからこそ、僕がブロガーになる前のドン底の時に書いた自伝のタイトルは【All is well(きっと、うまくいく)】なんですよね。
この先、どうなるかは分からないし、今を楽しむ以外に出来ることなんて何もないので、もっと人生ゴーゴーしていきたいなと。
amazonにて自叙伝『All is well ~みんな昔は子どもだった~』を絶賛販売中!!
幼稚園〜大学卒業までのエピソードに合わせて、その経験からの学びを書いています。
僕がブロガーになるまでの、話なのでこれからブロガーやフリーランスとして活動する方は是非読んでみてください。
※現在、Kindleアンリミテッドに登録すると無料で読めるので、この機会にどうぞご活用ください。
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